世界と日本の風と土

世界と日本の風と土

日本とイギリスで農村計画を学ぶ女子学生のブログ。いかしいかされる生態系に編みなおしたい。

よきフィールドワーカーであるために

 

こんにちは!すっかり新緑の季節ですね。久しぶりに大学へ行ったら新入生であふれていて、うわぁこの感じ久しぶりだなぁと、こちらまでワクワクするような気持ちになりました。やっぱり学生で賑わうキャンパスの風景はよいですね。

 

そんなフレッシュな1年生向けに、先日フィールド調査の心構えについてお話する機会をいただきました。せっかくなのでブログにも残しておこうと思います。

 

私たちが所属する学科には「フィールド安全管理学」という講義がありまして、毎年1年生が受講することになっています。講義のねらいとしては、これから実習や実験等でフィールドへ出ていくにあたって安全管理に関する知識やスキルを身につけようというもので、野生動物に遭遇したときの対応や、農作業用具の取り扱い、緊急時の心肺蘇生法などについて学びます。私も若かれし1年生のときに受講しました。(心臓マッサージの指差し確認を大声でやらされたことしか記憶にないけど)

 

今回は私の指導教員が担当する「社会調査におけるリスク管理」の回で、調査時に気をつけていることについて話してくれーいとお題をいただきました。実は修士の時にもプレゼンを頼まれたことがあって、あの時はどんなこと話したっけなーと昔のスライドを掘り起こしたら…


うーん。これ聞いても記憶に残らないだろうな。もちろんマナーのことは大事だけど、そのあたりは人としての気持ちであってだな、わざわざ話すのはちょっと押しつけがましいぞ…苦笑。それに「なぜ?を残さず納得して帰る」とあるけど、今はむしろ「なぜ?」を残して帰るようにしてる。

 

うむ。反省して新たにつくり直すことに。やっぱり数年も経てば、自分自身、意識しているものも変わるんだなと感じたし、たかだか30分程度だけど、この場を通して1年生に何か持ち帰ってもらえたらいいなと思いました。ありきたりな話してもしょうがないよね。

 

よし、私が1年生だった頃に知りたかった話をしよう。

 

良い観察と悪い観察

ずばりテーマは「観察
ニュートンさんも言ってたらしい、辛抱強く観察することが価値ある発見には重要だって。でもさ、ただ眺めるだけが観察じゃないよね。観察ってどうやるんだろう?ということで、私が心がけている3つの観点を紹介しました。

伝わりやすいようにキャッチ―にしてみたよ。調査をしている時、論文を読んでいる時、人の話を聴いている時、わりといつでも気にかけています。

まず「 要するに…」というのは現状把握のことです。目の前に起こっている事象をどうやったら説明できるか、客観的あるいは相対化して捉えてみる。
たとえば私の場合、農村に住んでいる方々に地域への想いや定住意思について質問させていただくことが多いのですが、ある地域の方が「どっちにしたってここに骨を埋めんにゃいけんから」とおっしゃったんです。それってどういう意味なんだろう?この時すぐにポジティブな意味なのかネガティブな意味なのか、ジャッジしたくなってしまいがちなのですが、ぐっとこらえて言葉通りに受け止める。“要するに、定住することが本人のなかで決まっているからこそ地域との関わりを大事にしたいと思っているのではないか” という風に捉えて、相手の言葉を言い換える形で確認するようにしています。

 

ただ、ここで注意しないといけないのは、相手が言ったことの範囲を超えて自分の憶測や推測の部分を含めて確認しないこと。誘導になりかねないし、相手の言葉を奪ってしまうことにつながるからです。自分が確認したことに対して相手が「そうそう!」と同意したからといって、本人が自発的にそう考えているとは限りません。それに、相手の言葉じゃなければデータとしては使えない。少なくとも私は相手の言葉じゃない部分は使わないようにしています。


要するに、相手の話や目の前で起きていることをありのまま受け止めて、現在地をプロットしていくという作業が観察の第一歩になると考えています。

 

現状把握ができたら、それを崩しにかかるのが第2フェーズの「本当に?」です。ありのままを受け止めておいてそれを破壊するなんて、残酷なように聞こえるかもしれないけど、調査者にとっては意識的にやらなければならないことだと思っています。哀しいかな、相手に感情移入しすぎてもいけないんです。相手の問題は私の問題ではないからです。むしろ、外からの目線を持ち続けることで、思いがけない突破口が見えてきたりします。


とはいってもね、やっぱり社会調査は人相手なので、どうしても “めっっちゃ共感!!この人たちのためになりたい!” と思ってしまうのが人間の性なのですが…地域の人たちと同じレベルの熱量で地域に関わることは難しいですし、感情的になればなるほど地域の幻想にハマってしまいます。一緒に熱い想いで地域の未来を考えていきたい!という素直な気持ちは認めつつも、一方で第三者としてのクールな視線は保っておきたい。どっぷり地域にハマりきれない寂しさはありますが、それがアウトサイダーである調査者の役目です。

 

ちょっと横道それますが、しばしば地方・農村は課題先進地と言われたりしますよね。なんでもかんでも問題だ!課題だ!となりやすい。よくあるのは、シャッター商店街=問題という認識で、「駅前なのに活気がなくて寂しい」「見た目も悪いし観光客もよりつかない」といった声も聞かれます。しかし、本当にそれが問題なのでしょうか?逆に、このシャッターが全部開けば地域の人たちは幸せなの?という疑問が湧いてくるんです。


シャッターが閉まっていることで誰が何に困っているのかを具体的に考える必要があると思います。


“本当に?"と問題の本質をずかずかと掘っていった結果、“問題だ!” と言っている人ほど郊外のショッピングモールにお金を落としていたりするし、商店街の主たちはシャッターの裏側で普段通りに暮らしていて困っていなかったりする。実は一番困っているのは近くに住んでいるお年寄りで、徒歩圏内に立ち寄れる場所がなくなってしまったことで家からもあまり出なくなってしまったり、社会的な交流の機会が減って孤独を感じていたりするかもしれない。とすれば、真の問題はシャッター商店街ではなくて、街中の交流の場が減ることによる社会的孤立の増加だということになります。じゃあ、無理にシャッターを開けようとしなくてもよくない?1箇所でもいいから風穴を通してあげて、地域のなかの人も外から来る人も気軽に立ち寄れるような場をつくれれば良いじゃん!というように、できそうなことが見えてきます。

 

そんなの妄想でしょ〜と思われるかもしれないけど、実は似たような取り組みが既にあるんです。出会ってしまったときには衝撃を受けました。嬉しかった。長野県辰野町にあるトビチ商店街

トビチ商店街HPより


仕掛け人の○と編集社の赤羽さん(建築士さん)がおもしろい方で「シャッター商店街は宝の山だよ!両隣りのシャッターがおりてることでリノベした建物が映えるでしょ」とおっしゃっていて、んまあ、そう言われるとありだなと思えてきます(笑) Cafeやギャラリー兼ワーキングスペース、レンタサイクル拠点など、飛び地で店舗を改修して、やりたい人のワクワクを実現していく。昔ながらの商店街に戻すわけではないけれど、商店街の機能や文脈を引き継ぎながら新たな価値を上乗せしていく。それが「まちの再編集」ということなのだろう。

 

「辰野にすんごく愛着があるわけではないけど、切っては切れない縁だし、ここに住んでいるんだから、日常が少しでも楽しくなったら良いよね、というくらいの気持ちでやっている」とお話されていたのが印象的で、さっきの骨を埋めにゃいかんおじいさんとも重なります。「辰野はチャレンジしやすいまち、つくり手になれるまち」という言葉が心に響きました。

 

ふう。大事なパートだったので、ついつい書きすぎちゃった。観察の話に戻すと、ここで言いたかったのは、現場のリアルと幻想は表裏一体なので幻想にハマらないように気をつけて!ということです。

 

「本当に?」を突き詰めれば「ひょっとして!」はすぐそこ。調査の醍醐味は、第3の道への入り口、アウフヘーベンともいえるかもしれない新たな仮説が生まれる瞬間だなと個人的には感じています。


悪い観察はわかった気になる観察。良い観察は新たな問いと仮説が生まれる観察。


これはコテンラジオ(※猛烈に激推しな歴史メタ認知ポッドキャスト!!)を聞いていたときに、佐渡島庸平さんという方が教育哲学者の苫野一徳先生とお話されたというエピソードのなかで紹介されていた言葉です。ほんとこれ大事だなと思いまして、講義で使わせていただきました。冒頭でちょろっと話したように、数年前の私は「なぜ?を残さず納得して帰る」と、完全に悪い方の観察をしてしまっていたんですね。今は、わかった気になったとしても、それは気がするだけだと自覚しているので崩しにかかることができます。”なるほどおおおお、わかった気がするぞー!!”とフィーバーしてる横で、もうひとりの自分が ”んなわけないじゃろ!バシッ" と制してくれる。こんな風にできるようになってきたのもここ最近で、もっと若い時から意識できてたらよかったなと思ってます。


仮説通りに進む研究ばかりが良いわけじゃない。むしろ仮説通りにならないところにヒントが隠されている。そのヒントをつかむためにフィールドに出るんです。

 

色眼鏡は外せるのか

「観察」という行為をする上で意識していることについては上で話しましたが、その前提として大事になってくるのが「観察者」としての在り方だと思います。


さて、ここにニュートラルな人を連れてきました。フリー素材でおなじみのイラスト屋に、文字通り「ニュートラルな人」がいたの。でね、「観察」といったときに、よく「ニュートラルに物事を観よう」と言われます。いわゆる色眼鏡を外しましょうということなんだけど、本当にニュートラルに世界を観れてる人っているのかな??ニュートラルにいようと心がける姿勢は大事だけど、ニュートラルな状態って相当むずかしいんじゃないの?と思ってしまったわけです。

 

どんなに眼鏡を外そうとしても、私は私が辿ってきた人生からは逃れられない。日本で生まれたという事実だけでも色んなフィルターが自動生成されていて、眼鏡というか、もはや角膜に染みついてるレベル。だから、それを自覚した上で、いろんな色眼鏡を持っておくことが大事なんじゃないかなと思います。


ここまでは哲学者のカントやコテンラジオの樋口さんも言ってた話で。ここからは私なりにフィールドワーカーとして、どうやって色眼鏡をこさえているか少し話しておわります。

 

私がフィールドに出る前にやっていることは主に4つ。まず、できるだけ調査前に地域の方々と関係づくりをしておくこと。たとえばさ、いきなりピンポーンって人が来たり、郵送でアンケート送りつけられたりしたことあるんだけど、ああいうのは回答する気にならないです。どこのだれぞ?となりますよね。たとえ回答したとしても、適当に3でもつけとこーとか、まともなデータになりません。やっぱり、人として協力し合える方がお互いに気持ちいいし、データの質にもダイレクトに影響します。(仲良くなりすぎて忖度があってもよくないのでバランスは大事だけどね)


こうした信頼関係を築けるように、一体どこの何者でどうしてここにいるのかをちゃんと伝えること、そして何を大事にしているのかなど価値観も含めて自己開示を積極的にすることを心がけています。また、どんなに仲良くさせていただいていても、常に学ばせていただいているという謙虚さは絶対に忘れないようにしています。私自身、知ったかぶりは嫌いです。調査する者 ― される者の関係を超えて、人としての関係ができれば、相手がどのように地域をみているのか、この地で生きることにどんな意味を感じているのか、会話の節々からなんとなく伝わってくるものが出てくるはずです。


そうなれば残りの3つはおまけみたいなもの。地域の基本情報をインストールしておいて、自分なりに仮説をたてて、いろんな妄想を膨らませて調査に臨めば、色眼鏡をつけかえるように色んなことに気づけると思います。

 

まとめ

 

色眼鏡をたくさん持っておこうと言ったけど、究極的にはレインボー眼鏡を手に入れて、自由自在にレイヤーを重ねるように世界を観ることができたらおもしろいと思う。私の眼鏡もまだ色のバリエーションが少ないですが、自分が見ている世界の枠から出たり入ったりすることで、少しずつ新しい色を集めているところです。基本的に、ほかの人がどんな時代や社会を生きてきて、どんなことを考え、どんな風に世界を観ているのか、知りたくなっちゃう性なので。うざがられてる時もあるんだろうなぁ。でもやめられない。


多様性はややこしい。でも楽ばかりしてると無知になる


ふと、ブレイディみかこさんの言葉が浮かびました。この世界のことを全て知り尽くすことは無理だけど、無知のまま死にたくはない。無知が嫌だから研究やってるようなもんよ。無知の知ではあるけれど、それでも知りたいんだ。だからこそ「観察」を怠らず、知を生み出し知を紡ぐフィールドワーカーであり続けたい。

 

そうした気持ちを新たに、今日もフィールドへ行ってきます!
きっと何気ない1日のなかにも発見がころがっているはず。
ということで、みなさんも Have a nice day!