世界と日本の風と土

世界と日本の風と土

日本とイギリスで農村計画を学ぶ女子学生のブログ。いかしいかされる生態系に編みなおしたい。

白衣をぬいで用水路をほった医師、中村哲さんの話

「百の診療所より一本の用水路を」

この人、本気だ。と思った。

パワーショベルを乗りこなしながら濁流のなかで岩を積む彼の姿をみて、思わず後ずさりしてしまいそうな感覚におそわれた。

 

堰をつくる中村哲医師(画像:ペシャワール会

 

中村哲さんのことを知ったのは7年くらい前のこと。大学で環境哲学の先生が企画してくれた上映会がきっかけだったと思う。

 

そのときに観たドキュメンタリーは用水路づくりに焦点をあてたものだった気がする。砂漠の大地に柳と水がゆらめく風景は異様な風情をはなっていて、その残像が今でも頭のどこかに焼きついている。

 

マルワリード用水路(画像:PMS(平和医療団・日本))

 

農学部生としては、全長25.5㎞の用水路をいちから独学でつくり、1万6500haの大地を潤し、65万人の生命を支えているというストーリーは ”胸アツ” 以外のなにものでもない。

 

日本の江戸時代の農業土木技術(中村医師の故郷である筑後川の山田堰)を応用させて、現地の人でも簡単に維持管理ができる柳と石籠の近自然工法を用いたことも心惹かれるものがある。

 

平和はよろこばれないから


2019年に訃報を知ったとき、不謹慎ではあるけれど、そうなるかもしれない予感が自分のなかにあったことを知った。それと同時に、どうして平和がよろこばれないのだろうかと、悲しさや残念な気持ちがこんがらがって胸の内にこみあげてきた。

 

ウクライナのことが起きている今、その絡まったものはどんどん成長しながら心のどこかで渦巻いている。

 

信頼は一朝にして得られるものではない。

利害を超え、忍耐を重ね

裏切られても裏切り返さない誠実さこそが

人々の心に触れる。

私たちにとって平和とは

理念ではなく現実の力なのだ。

 

中村哲『天、共に在り』

 

正直、平和なんて綺麗事だと思っていた。ほんとに世界平和っておとずれるんかいなと今もちょっと疑っている。

 

でもちがったみたい。そもそもの考え方が。

 

生きることの尊さとしんどさ、その一方で命を奪うということがいとも簡単に行われているという現実があるなかで、平和とは当たり前ではなく自ら積極的に得ていく「現実の力」なのだということを胸に刻んでおきたい。

 

「荒野に希望の灯をともす」

 

今回観ることができたドキュメンタリー「荒野に希望の灯をともす」は、中村哲さんの21年間を追ったものだ。用水路づくりのドキュメンタリーとは異なり、中村医師の人柄や言葉に光をあてた内容だった。

 

この映画は次の言葉からはじまる。

 

人は必ず死ぬ。

当然だが、生命体として

逃れられぬ掟である。

 

いかに多くの所有を誇ろうと、

いかに名声を得ようと、

それをあの世に

持ち去る事はできない。

 

その時、我々の生きた軌跡が

何かの暖かさを残して、

 

人としての温もりと真実を

伝えることの方が大切なのだ。

 

中村哲『ダエラ・ヌールへの道』

 

最初からじーんときてしまった。中村哲さんの「生きた軌跡」が遺志となり用水路となって、脈々と人びとや大地の間に温もりを運んでいるのだろうと感じた。

 

かくいう私も映画を観終わるころにはその一人になっていた。

 

一隅を照らす

中村哲さんが大事にされていた言葉だそうだ。

 

映像を観ながら彼の生きる姿に強い意志と愛を感じて何度も涙が込み上げてきた。医は仁術なりとはいうけれど異国の地でここまでできるだろうか。きっとこれも彼からしたら結果論なのだろう。

 

自分の置かれた場所で自分にできることを尽くす。注目されようがされまいが自分なりに生命を輝かせて生きようとする。

 

そうした彼の生き様そのものに私は今日も心動かされている。

 

「照らす」ということ


ここで「一隅を照らす」の「照らす」とはどういうことなのかを考えてしまった。

 

暗ければこそ光を灯す価値がある。

寒ければこそ火を焚く意味がある。

 

でも、暗闇に慣れた人びとは光のまぶしさを嫌がるかもしれない。

 

中村医師がアフガニスタンの山岳地帯に新たな診療所を建設しようと現地を訪れたとき、村人から「私たちを気まぐれで助けて、すぐに去ってしまうのではないですか」と声をかけられる場面があった。

 

彼はすかさず「決して去らない。私がいつか死んだとしても診療所は続けていく覚悟です。」とこたえ、何年も現地に通いながら信頼関係をつくり診療所を建設したという。中村医師が亡くなった今も診療所は人びとを癒しつづけている。

 

こうした一つひとつの覚悟の背景には「不条理への復讐」があると中村医師はいった。

 

当地への赴任は最初にヒンズクッシュ山脈を訪れた時のひとつの衝撃の帰結であり、あまりの不平等という不条理に対する復讐でもあった。

 

「復讐」というと過激な印象を受けるけれど、言い換えれば ”ほっとけなさ” のようなものなのではないか。知ってしまったのだから、だれもやらないのだから、私たちがやるしかない、そういうことだと思う。

 

それと、10歳で亡くなられたという息子さんの存在は中村医師の活動を大いに支えていたと思う。アフガニスタンの子どもたちに我が子の未来を重ねて「他人事だとは思えないから」と言っていた。

 

「一隅を照らす」というのは、いきなり懐中電灯のような光線を振りかざすのではなくて、自分のなかにランプのような光を抱いて目の前のことに向き合っていくうちに、その熱がじわりじわりと周囲に広まっていくことなのではないだろうか。

 

用水路の掘削作業(画像:PMS(平和医療団・日本))

 

作業地の上空を盛んに米軍のヘリコプターが過ぎてゆく。時には威嚇するように頭上を旋回して射撃音が聞こえる。けたたましくも忙しいことだ。我々は地上をうごめくアリのように、ひたすら水路を掘り続ける。彼らは殺すために空を飛び、我々は生きるために地面を掘る。彼らはいかめしい重装備、我々は埃だらけのシャツ一枚だ。彼らは暗く、我々は楽天的である。彼らは死を恐れ、我々は与えられた生に感謝する。彼らは臆病で、我々は自若としている。同じヒトでありながら、この断絶は何であろう。

 

彼らに分からぬ幸せと喜びが、地上にはある。乾いた大地で水を得て、狂喜する者の気持ちを我々は知っている。自ら汗して、収穫を得る喜びがある。家族と共に、わずかな食べ物を分かつ感謝がある。沙漠が緑野に変ずる奇跡を見て、天の恵みを実感できるのは、我々の役得だ。水辺で遊ぶ子供たちの笑顔に、はちきれるような生命の躍動を読み取れるのは、我々の特権だ。そして、これらが平和の基礎である。

 

中村哲さんとアフガニスタンの人びととの間には確かに強い絆のようなものがあった。

 

中村哲さんという人

 

ところで、中村哲さんはクレヨンしんちゃんが好きだったらしい。

あと、オンとオフがハッキリされていたそうで、オフのときはぼけ~っとしながら耳にイヤホンをつっこんでモーツァルトを聞いていたり、しょうもないギャグをよく言っていたとか。

 

そんなおちゃめな中村医師の一面をおしえてくれたのは監督の谷津さんだった。

 

そもそもこの上映会を知ったのは地元のローカル紙だったのだけど、谷津監督がこの辺に住んでおられるということで、こんな近くにおもしろい人がいたもんだなぁと驚いた。

 

mosimosi.biz

↑この記事のなかでたまらなく好きな部分がある

 

中村医師が亡くなる前のこと。「先生、後継者は誰ですか?」の問いに、中村医師は「私の後継者は用水路です」と答えたと。

 

読みながらニヤリとしてしまった。やはり偉大だ。

 

谷津さんいわく、中村哲さんは「仁と義の人」で、他者をいつくしむ心をもち、正しく勇敢であったと。だからこそアフガニスタンパキスタン、日本の人びとの心に響いた。中村医師の生き様にみな励まされているのだとお話してくれた。

 

このような方が3年前まで同じ空の下に存在していたと思うと、ほんとに捨てたもんじゃないなと思う。自分のおかれた場所で自分にできることをする。そこに事の大小は関係ない。

 

私は今おかれている状況で・立場で・環境で何ができるだろう。何をのこせるだろう。私が育んできた愛や想いや経験からどうやって自分の生命を発揮できるだろう。

 

中村哲さんが示してくれたように、目の前のことや目の前にいる相手といった目にみえるものだけではなく、その背景やまだ見ぬ未来も大事にあたためながら生きていきたい。

 

視座高くされど地に足をつけて
泥くささと謙虚さと茶目っ気をもって
今日も生きていこう。

 

用水路建設前後のスランプール平野(画像:西日本新聞

 

参考


中村哲さんの軌跡

1946年 福岡市生まれ

1978年 アフガニスタンパキスタンの国境にまたがるヒンドゥクッシュ山脈の登山隊に参加

1984年 パキスタン北西部赴任 ハンセン病患者の診療

1991年 アフガニスタンに診療所を開設

2000年 大干ばつ 「もはや病の治療どころではない」 2006年までに1600カ所の井戸を掘る

2001年 同時多発テロ

2003年 地下水の枯渇 → 用水路建設に着手 「緑の大地計画」

2010年 マルワリード用水路完成 潤った土地は1万6500ha

2019年 アフガニスタン名誉市民に

2019年12月4日 凶弾に倒れる 享年73

 

 

■映画の概要

www.youtube.com

アフガニスタンパキスタンで35年にわたり、病や戦乱、そして干ばつに苦しむ人々に寄り添いながら命を救い、生きる手助けをしてきた医師・中村哲NGO平和医療団日本(PMS)を率いて、医療支援と用水路の建設を行ってきた。活動において特筆すべきことは、その長さだけでなく、支援の姿勢がまったくぶれることなく、一貫していたことだ。一連の活動は世界から高く評価され、中村医師は人々から信頼され、愛されてきた。

 

いま、アフガニスタンに建設した用水路群の水が、かつての干ばつの大地を恵み豊かな緑野に変え、65万人の命を支えている。

 

しかし、2019年12月。用水路建設現場へ向かう途中、中村医師は何者かの凶弾に倒れた。その突然の死は多くの人々に深い悲しみをもたらした。だが、一方で私たちに強く問いかけもする。 中村医師が命を賭して遺した物は何なのか、その視線の先に目指していたものは何なのか。

 

■資料

www.youtube.com

 

 specials.nishinippon.co.jp

 

www.peshawar-pms.com